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日本の食事が変わった日

abob201003 006 今日 8月14日は、1950年日本政府が「パン完全給食実施」を発表した日です。私もパンと脱脂粉乳の給食を体験した世代です。
牛乳は中学に入学してからでした。 「共生の恩恵」でお伝えしましたが、皇居の水田で「お田植え」をされ、天皇陛下自ら、収穫されたお米などを神前にお供えする宮中儀式「新嘗祭」をはじめとして日本人は米作りを通じて、生活、文化、社会、政治、芸能、思想、行動様式がつくられてきました。
朝食、夕食の準備 ができた母は「ご飯が出来たよ」と呼びかけてくれました。
1日3回の食事のうち、1回が小麦でできたパンにかわる。体をつくる食べ物がかわる。特に、何千年も受け継がれてきた主食の変化は日本人の食事の革命でした。

日本人は数千年の昔から、穀物を常食としてきた「穀食民族」です。とりわけ、他の穀物よりもおいしいお米は大切に作られてきました。
奈良、平安時代は、お米を「税」として徴収する制度ができたため、上流階級では、5分搗き、7分搗き、さらに、白米にまで精米して食べる習慣が定着したそうです。
その結果、足にむくみが出たり、足の神経が麻痺して歩行困難になる「脚気」が頻発するようになったそうです。

症状が進行すると、脚部から全身の異常へ広がります。無気力、全身の倦怠感、眠気、嘔吐、錯乱意欲減退しうつ状態になります。
脚気は全身の神経障害の病気に広がり、心臓を取り巻く神経の働きが鈍り、心不全に至ります。
原因は、精米することでビタミンB1が不足するからです。

徳川13代将軍家定、14代家茂は脚気が原因で亡くなったといわれています。
精米の常食で脚気は上流階級から発生し、長く悩まされたようですが、雑穀主体の庶民には、ほとんど発病はなかったといわれています。

江戸時代も平和な時代が続き、元禄の頃になると江戸では、衣食に楽しみを求め、白米を食べる習慣が庶民の間で広まり、とたんに体の不調を訴える者が続出したそうです。
地方から来た江戸勤務の武士は馬に乗れず、丁稚小僧も階段を登れなくなるといった状態が国に帰って、玄米、雑穀を食べるとたちまち症状は回復して、元気を取り戻す。
当時、「脚気」を地方では「江戸病い」と呼ばれたそうです。

明治になり、白米常食、「脚気」は江戸から地方都市へ広がりました。
特に、軍隊内での「脚気」の発症は顕著だったといわれています。
日清戦争で戦死者364人、脚気病死者4064人
日露戦争で戦死者85600人 脚気病死者27800人(脚気患い25万人)
銃を持ってもまともに行進出来ず、酒酔いのような状態で戦ったといわれています。
当時、特に陸軍では、「脚気」は細菌による感染症と考えられていたので、その対処法にもいつ感染するかわからないという恐怖心が常にあったようです。

大正末期になって、「脚気」はお米の精米に問題があったと結論づけられました。
ただし、精米度で玄米、7分搗き、胚芽米の3派に分かれました。
この時点で、白米が必要と主張した医学者、栄養学者はさすがにひとりもいなかったようです。

しかし、日本の敗戦となった第2次世界大戦の混乱に乗じ、白米が国の定める法定米になってしまいました。
当然「脚気」の再燃を懸念した政府は、白米を中心とした新しい栄養改善策として、小麦を白米と同様な扱い方をするとう前提で導入、動物性食品(肉、卵、乳製品、魚介)、油脂類大豆製品、野菜類を多く摂るように、指導、教育が行われました。

その結果、学校給食にパン、乳製品の導入が始まりました。
そして、これらの実施においては、当時、売り先を失い、買い手をさがしていたアメリカの余剰生産穀物があてがわれました。

その後の経済発展とともに、元禄時代の江戸庶民のように豊か暮らしを謳歌し続ける現代人には「脚気」以上の様々な難病とのお付き合いが待っていました。
そして、食物自給率も低下し続けています。

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